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東北大震災ボランティア2日目 石巻市へ
2011年05月24日
今日は東北大震災ボランティアの2日目。宮城県石巻市へ向かいました。車では渋滞もあり、車で2時間程度かかりました。
石巻ボランティアセンターは石巻専修大学につくられています。大きな運動場にはベースキャンプもできており、100近くのテントが並んでいました。
写真は今日のメンバーと今日のボランティアの受け入れをしているところです。今日は女性1名、男性8名で1件のご自宅の泥かきを行うことになりました。
このような名札を付けて出発です。しっかり田川市をアピールしてきましたよ!
写真は移動中の写真。非常にひどい災害のあった場所だとすぐに分かる光景です。このような光景が延々と続いていました。
依頼を受けたご自宅では床下の泥を取るための作業をしました。まずは釘を抜き、泥を取るための場所の確保を行いました。日本有数の漁協だったのもあり、多くの水産加工場があります。魚の死骸などがまじり、周囲は悪臭がひどかったです。
このご自宅にも津波が1階部分の天井まで押し寄せ、車もこのように押し流されていました(家主の許可を頂いて撮影しました)。
昼ご飯は公園でとりました。写真は津波で大きく曲がった遊具。公園に行くまでの道の傍らにも、この公園の周辺にも花が手向けられていました。おそらくその場所でお亡くなりになった方がいたのだろうと思います。
休憩中もマスクは必須でした。
昼からは床下から泥かきをしました。狭い中の作業のため、かなり難航します。
最後に石灰をまきます。この家の作業は今日で終了となりました。
写真右の土のうが、泥だしした成果物です。写真の通り周辺も水につかり人は殆ど住んでいません。この周辺はどこもそのような状況で、とても静かな状況になっていました。前はどのような町並みだったのか分からない状況です。
津波は1階まで来たということで、平屋建ての家の方の多くがお亡くなりになったと教えて頂きました。「あの家の方も、この家の方も亡くなった」と聞いて、非常に胸が詰まりました。
また今日お手伝いをしたご自宅の方は、奥様が自宅で人工呼吸器を付けていたとのことで、津波の時は2階にひっぱりあげ、その後水が引くまでの3日間、ずっと家族3人が手動で人工呼吸器のポンプを交代で押し続けたとのことでした。想像を絶する話です。
写真はボランティア用資材を収納している倉庫。と言っても恐らく大学の部活用屋内練習場だったのだろうと思います。
帰りに
石巻市役所も訪ねました。ここは震災前に石巻駅前にあった百貨店を市役所に改装して市役所として使っているとのことでした。
パソコンで作成した「市報いしのまき」が張り出されていました。よく見ると「死者2416人、行方不明者2741人」と書かれています。まだ2700人を超える方が行方不明で、死者も含めると死者/行方不明者は5157人となります。
近くにも多くの行方不明の方のお写真や特徴が張り出されていました。まだ2歳の方や私と同い年の方、どこで津波にあったか、その時身につけていたネックレス、など細かい特徴を記載していました。
今日石巻市でボランティアの方や地域の方から聞いた話をまとめます。
○ ボランティアはまだまだ圧倒的に足りない
○ ただ以前より少しだけ被災者要望への対応ができるようになってきた
○ ピースボートが大口ボランティアでいるのが大変助かっている
○ 避難所は弁当がほとんどで、家庭的な料理を食べたい
○ 介護関係の従事者が足りないと聞いている
私自身が感じた感想です。
○ 石巻市のボランティアセンターは非常に充実しており、流れもスムーズだった
○ ただ被災地の現状が著しくひどく、ボランティアの需要は圧倒的に泥出しや力仕事がほとんどのよう。男性需要が高い地域のようだった
○ ピースボートが大口ボランティアを供給しており、ボランティアセンターとの連携もうまくいっている。
○ ボランティア事務局は全国の社協から集めており、石巻市は近畿・中国・四国から来ていた。
○ ただ県職員は県からの派遣があるもの、基礎自治体職員は自治労など労組からの派遣がほとんどだった(私が確認する限り)。自治体こそこのノウハウを習得し、自治体の防災計画に役立てるべきである。田川市もまだ派遣をしていないのであれば、自治体として職員の長期派遣等を早急に行い、田川市の防災計画に生かすなどをすべき
○ またこのような災害に陣頭指揮をとるべき首長や政治家こそ、この現状を感じる必要があると思う。1日でも良いのでボランティアを行い、色んな方に話を聞くなどして、地域の防災などを考えるヒントをひろうべき(防災上の色んなヒントが被災地には転がっています)
以上です。